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吸音 vs 拡散:ルームアコースティック対決

July 25, 2025
技術解説
absorber-vs-diffuser

静寂を彫刻する二つの鑿

オーディオファイルの探求とは、突き詰めれば、ひとつの彫刻行為に他ならない。我々のリスニングルームは、未加工の、しかし可能性に満ちた大理石の塊である。スピーカーから放たれる純粋な音楽信号は、この空間という名の共振体に触れた瞬間、その原形を歪められてしまう。定在波 (Standing Wave) が特定の音程を不自然に増幅させ、壁と壁の間を往復するフラッターエコー (Flutter Echo) が音の輪郭を曖昧にし、制御されない一次反射音が演奏家たちの繊細な位置関係を混沌へと陥れる。

この混沌とした大理石から、音楽という名の芸術作品を彫り出すために、我々には二つの根源的な鑿(のみ)が与えられている。それが「吸音 (Absorption)」と「拡散 (Diffusion)」である。

一方は、吸音という名の鑿。その哲学は「除去」にある。音響エネルギーを実質的に無害な熱エネルギーへと変換し、音場から永久に取り除く。これは、明瞭性と分析的な正確性を追求する道であり、静寂の中から音の粒子そのものを浮かび上がらせるための、虚飾を排したアプローチと言えるだろう 1。グラスウールやロックウールに代表される多孔質吸音材は、この哲学の最も忠実な実践者である 2。

もう一方は、拡散という名の鑿。その哲学は「再分配」にある。音響エネルギーを破壊するのではなく、時間的・空間的に均一に散らし、鋭利な反射波を、知覚されにくい無数の微細な響きへと変容させる。これは、広がりと生命感を追求する道であり、リスニングルームという閉じた箱の中に、コンサートホールの豊かな響きを再現しようとする試みではなかろうか 4。マンフレッド・シュレーダー博士が考案したQRD (Quadratic Residue Diffuser) は、この幾何学的美学の象徴的存在だ 4。

本稿では、これら二つの対極的ながらも補完的な音響哲学を、その物理的原理から実践的効果、そしてデジタル時代における現代的意義に至るまで、深く掘り下げていく。DIYによる数千円の投資から、専門家が設計する数百万円の音響工事まで、その道は多岐にわたる 5。理想的な聴取環境とは何か。物理法則と感性の調和とは。この根源的な問いへの答えを探す旅に、読者を誘いたい。

1. 理論の深淵:音響エネルギーを支配する物理法則

吸音と拡散、両者の選択は単なる好みの問題ではない。それは、音響エネルギーという目に見えない力を、いかにして支配下に置くかという、物理法則に基づいた戦略の違いに他ならない。

吸音の物理 (The Mechanics of Absorption)

一般的に吸音材として知られるグラスウールやロックウールは、音をスポンジのように「吸い込む」わけではない。その本質は、音波が持つ運動エネルギーを熱エネルギーに変換するという、極めて物理的なプロセスにある 3。音波が多孔質な繊維構造の内部に侵入すると、空気分子は複雑に絡み合った無数の繊維との間で激しい摩擦(粘性抵抗)を起こす。この摩擦によって、空気の振動というマクロな運動は、分子レベルの微細な熱振動へと変換され、音響エネルギーは実質的に消滅するのである 1。

この変換効率、すなわち吸音率 (Absorption Coefficient) は、いくつかの重要な要素に支配される。

  • 厚さ (Thickness): 吸音材の性能を決定づける最も重要な因子は、その厚さである。特に低周波の長い波長を持つ音を制御するには、波長の1/4程度の厚みが必要とされる。これが、薄いウレタンフォームなどが低音域の「ブーミーさ」に対してほとんど無力である理由だ。メーカーの公開データを見ても、例えばグラスウール材の厚さを50mmから100mmに倍増させると、特に500Hz以下の低中音域における吸音率が劇的に向上することが示されている 3。
  • 背後空気層 (Air Gap): 吸音材を壁から離して設置し、背後に空気層を設けることは、コストを増やさずに低域の吸音効果を高めるための極めて有効な手法である。壁面では空気分子の速度はゼロになるが、壁から離れた位置では速度が最大になる。吸音材をこの空気速度が速い場所に配置することで、より効率的なエネルギー変換が可能となるのだ。背後空気層を160mm、300mmと増やしていくと、吸音効果のピークがより低い周波数へとシフトしていく様子が測定データからも確認できる 3。
  • 密度 (Density): 一般に、密度が高いほど中高音域の吸音率は向上する傾向にある。しかし、ある点を超えて密度が高くなりすぎると、今度は素材自体が音を反射し始め、かえって吸音性能が低下する場合があるため、適切なバランスが求められる 8。

拡散の幾何学 (The Geometry of Diffusion)

平坦で硬い壁は、音響における鏡である。入射した音を、入射角と同じ角度で強く反射する(鏡面反射)。この整然とした反射波が直接音と干渉すると、特定の周波数が強め合ったり打ち消し合ったりするコムフィルタリング (Comb Filtering) を引き起こし、音色を著しく歪ませる 9。

拡散とは、この音響的な鏡を打ち砕き、無数の小さな乱反射面に置き換える行為である。その理論的支柱となったのが、ベル研究所のマンフレッド・シュレーダー博士が提唱したQRD (Quadratic Residue Diffuser) だ。これは、二次剰余数列という数学的規則に基づいて深さが決定された、幅の等しい井戸の集合体である 4。

音波がこの凹凸のある表面に当たると、各井戸の底で反射された音波は、その深さに応じて異なる位相遅れを持つことになる。これらの位相がずれた波が再び合成されることで、音のエネルギーは単一の方向ではなく、半円状あるいは半球状の広範囲にわたって均一に散乱されるのだ 4。これは単なるランダムな凹凸ではなく、数学的秩序に基づいた「計算された無秩序」であり、それゆえに特定の周波数に偏ることなく、広帯域にわたって滑らかな拡散特性を実現できるのである。

拡散体の性能もまた、その形状によって決定される。

  • 周波数特性 (Frequency Range): 拡散体が有効に機能する周波数範囲は、その幾何学的形状に直結している。最も深い井戸の深さが低域の限界を定め、最も狭い井戸の幅が高域の限界を定める。低域まで有効な拡散体ほど、構造が大きく、深くなるのはこのためである。
  • 拡散の次元 (Dimensionality): QRDには大きく分けて1次元 (1D) と2次元 (2D) のタイプが存在する。1Dタイプは音を水平または垂直方向の半円状に拡散させるのに対し、「スカイライン」と呼ばれる2Dタイプは、音を半球状のあらゆる方向へ拡散させる。天井からの反射や、側壁のフラッターエコー対策には2Dタイプが特に有効とされる 5。

理論的効果の比較

比較項目 (Comparison Item)吸音 (Absorption)拡散 (Diffusion)根拠・出典 (Basis/Source)
主な改善対象 (Primary Target)残響時間 (RT60), 定在波 (Standing Waves), 一次反射音 (First Reflections)コムフィルタリング (Comb Filtering), フラッターエコー (Flutter Echo), 空間印象 (Spatial Impression)10
時間領域への影響 (Time Domain Impact)残響時間(RT60)を短縮し、音の「死」をもたらす可能性 (Shortens RT60, can lead to a “dead” sound)反射エネルギーを時間的に拡散させ、滑らかな減衰を促す (Temporally scatters reflection energy, promoting smooth decay)4
周波数領域への影響 (Frequency Domain Impact)周波数帯域全体のエネルギーを削減 (Reduces energy across frequency bands)周波数特性の凹凸を平滑化する傾向 (Tends to smooth peaks and dips in frequency response)10
空間印象への影響 (Spatial Impression Impact)音像がタイトで明確になるが、空間の広がりが失われることも (Image becomes tight and focused, but spaciousness can be lost)音場を広げ、包み込まれるような感覚を生む (Widens the soundstage, creates envelopment)4
非可逆性/副作用 (Irreversibility/Side Effects)過度な吸音は高域のエネルギーを奪い、生命感のない音になる (Over-absorption removes high-frequency energy, creating a lifeless sound)リスニングポジションに近すぎると効果が薄い、または不自然になる (Ineffective or unnatural if too close to the listener)9

両者の根本的な違いは、「エネルギーの破壊」か「エネルギーの保存と再分配」かという点にある。吸音は部屋の響きという問題を、エネルギーそのものを消去することで解決しようとする。一方、拡散は部屋の響きを厄介者と見なすのではなく、それを飼いならし、より害が少なく、音楽的に心地よい形へと再構成することで解決しようとする。この哲学的な分岐点こそが、オーディオファイルが自らの目指す音を定義する上で、最初に直面する選択なのである。

2. 実践の響き:測定データと聴感が織りなす現実

理論がいかにエレガントであっても、その真価は実際のリスニングルームで発揮されて初めて意味を持つ。ここでは、フォーラムの投稿や専門家のレビューといった実例を通じて、吸音と拡散が現実の音場にどのような変化をもたらすのかを検証する。

実践導入事例の分析

導入者 / 媒体 (Implementer / Medium)引用抜粋(和訳+原文)と要約 (Quote & Summary)Before/After データ (Data)出典URL (Source)
The Beach House Studios / GIK Acoustics Review”He wasn’t trying to just up-sell me… he really took my interests, issues, and limits into consideration.” (彼は私に高価なものを売りつけようとしたのではなく、私の興味、問題、予算を真に考慮してくれた) - 要約: プロのスタジオオーナーが、GIK Acousticsの吸音パネル(242パネル、Monster Bass Traps)を導入。専門家のアドバイスを受け、既存の機材も活用し、予算内で効果的な音響処理を実現した。製品のビルドクオリティと、顧客本位のコンサルティングサービスを高く評価している 14。主観的評価のみ。測定データは記事にないが、プロのレコーディングスタジオが満足する水準の効果が得られたことは、その有効性を強く示唆している。14
Audio Science Review Forum User (総合的見解)“Dirac or any decent room eq is the most sensible solution… to get rid of the boominess. That naked back wall just behind listening seat worries me. You need there something to control reflections. Diffusors wont work that close.” (DiracのようなまともなルームEQは、ブーミーさを取り除く最も賢明な解決策だ。リスニングシート直後のむき出しの壁が気になる。反射を制御する何かが必要だが、拡散体は近すぎて機能しないだろう) - 要約: 科学的アプローチを重視するフォーラムでは、低域の問題にはDSP補正が有効である一方、リスニングポジション近傍の一次反射には物理的な吸音材が不可欠という共通認識が見られる。拡散は効果を発揮するのに一定の距離が必要という制約も、実践的な知見として共有されている 13。(Reference to REW standing wave simulation images) 1613
DIY Audiophile (philm-community.com)「拡散パネルと加工の総コストですが、300㎜四方辺り2000円ちょっと程度。」 - 要約: DIY愛好家が、市販のハイエンド製品(なんちゃってQRDで600mm四方3万2千円)と比較して、大幅に低いコスト(600mm四方で9000円程度)で拡散パネルを自作。コストパフォーマンスを最優先するアプローチの実例として示唆に富む。効果は主観的な満足度に基づくが、音響チューニングの民主化を象徴している 6。コスト比較データのみ。音響測定データは提示されていない。6

音質的傾向の分析

これらの事例と理論を総合すると、各アプローチがもたらす音質的傾向が浮かび上がってくる。それは、音楽ジャンルや聴取目的によって、長所とも短所ともなり得る。

吸音を主体とした環境は、まさしく「分析的」という言葉が相応しい音場を現出させる。不要な反射と残響が徹底的に抑制された空間では、音源に刻まれた情報が、部屋の化粧を施されることなく、ありのままに提示される。スピーカー間の音像定位はピンポイントで定まり、楽器の輪郭は驚くほど明瞭になる。特に、定在波が除去された低域は、ブーミーな響きから解放され、一音一音のアタックとディケイが正確に描き分けられるタイトなものへと変貌する 10。この特性は、録音された音の瑕疵(かし)までをも暴き出すため、ミキシングやマスタリングといったプロフェッショナルの作業環境には不可欠と言っても過言ではない 12。しかし、その副作用として、空間の響きや「空気感」が失われ、音楽がやや窮屈で生命感に欠ける、いわゆる「デッド」な印象を与える危険性も常にはらんでいる。

拡散を主体とした環境は、対照的に「没入感」を醸成する。拡散体は、壁の存在を音響的に消し去り、リスニングルームの物理的な境界を超えた広大な音場を創り出す 4。音はスピーカーから放たれるというよりも、空間全体から湧き上がってくるかのように感じられ、リスナーを優しく包み込む。クラシック音楽におけるホールのアンビエンスや、ジャズにおけるライブハウスの熱気といった、演奏空間そのものの再現性が飛躍的に向上するだろう。直接音をマスキングする有害な強反射が、心地よい拡散音場に置き換わることで、長時間のリスニングでも聴き疲れしにくいという利点もある 4。ただし、音像の輪郭は吸音環境に比べてやや甘くなる傾向があり、極度に分析的な聴取を求める向きには、物足りなく感じられるかもしれない。

この二つの音質的傾向は、オーディオファイルが自らの聴取行為に何を求めるかという、根源的な問いを我々に突きつける。求めるのは、録音の細部までを解剖するような「分析的真実」か。それとも、演奏の場に身を置くかのような「体験的没入感」か。その答えによって、選択すべき音響処理の比重は自ずと定まってくるのである。

3. 価値の天秤:総合的評価

吸音と拡散、それぞれのアプローチの価値を多角的に評価するため、いくつかの評価軸を設けて比較検討を試みる。この評価は絶対的なものではなく、あくまで一般的なリスニング環境を想定した上での一つの見識として捉えていただきたい。

評価軸 (Evaluation Axis)吸音 (Absorption) (5点満点)拡散 (Diffusion) (5点満点)解説 (Commentary)
音質改善効果 (Acoustic Improvement)4.54.0吸音は定在波や一次反射といった、音質を著しく劣化させる最も有害な音響欠陥を直接的に、かつ劇的に改善する能力を持つ 10。拡散はコムフィルタリングの抑制や空間表現の向上といった、より洗練された改善をもたらすが、根本的な問題解決力という点では吸音が優位に立つ。
コストパフォーマンス (Cost-Performance)4.03.0グラスウールなどを用いたDIY吸音パネルは、非常に安価に製作可能であり、費用対効果が高い 18。市販品も幅広い価格帯から選択できる。一方、効果的な拡散体、特に低域までカバーするものは構造が複雑で、材料費も高くなる傾向があり、市販品は高価である 5。
導入/運用の柔軟性 (Flexibility)3.53.5吸音パネルは比較的軽量で設置場所の自由度が高いが、一度過剰に設置すると、部屋の響きを取り戻すのが困難になる非可逆的な側面を持つ。拡散体は効果を発揮するために壁から一定の距離を要する場合があり、小部屋では設置が難しいことがある 13。両者とも、生活空間の美観を損なう可能性は常に考慮すべき課題である 20。
科学的妥当性 (Scientific Validity)5.05.0両アプローチとも、音響物理学に深く根差した確立された技術である。その効果は、REW (Room EQ Wizard) のような測定ソフトウェアとマイクロフォンを用いれば、周波数特性や残響時間 (RT60)、インパルス応答といった形で客観的に測定・検証が可能である 4。
汎用性 (Versatility)4.03.0吸音は、過剰な残響の抑制という基本的な問題解決のために、小規模なホームスタジオから大規模なコンサートホール、リスニングルームからオフィスの会議室に至るまで、あらゆる環境でその有効性を発揮する 21。拡散は、ある程度の空間的余裕があり、より高度な音響的洗練を求める場合に真価を発揮する、やや専門的なソリューションと言える 17。

バイアスチェックと俯瞰的視点

この評価を行う上で、コミュニティによるバイアスの存在を認識しておくことは極めて重要である。例えば、Audio Science Reviewのような測定至上主義的なコミュニティでは、客観的なグラフで劇的な改善が示される低域の定在波補正や周波数特性の平坦化が重視される傾向があり、結果として吸音やDSPの効果が高く評価されがちである 13。一方で、拡散がもたらす空間印象の向上といった、定量化しにくい主観的な効果は、やや軽視される可能性がある。

逆に、主観的な印象を重んじるフォーラムでは、拡散がもたらす「魔法のような」効果が、十分なデータなしに過度に称賛されることもあるだろう。本稿の評価は、これらの両極端な視点から距離を置き、物理的な効果と知覚的な価値の両方を考慮した、バランスの取れた判断を目指したものである。

最終的に、これらの評価軸の重み付けは、リスナー個々の部屋の音響特性と、その人が何を最も重視するかによって変動する。例えば、コンクリート壁に囲まれた小さな「シューボックス」型の部屋では、深刻な定在波を抑制する吸音の価値は、間違いなく5.0点満点に値するだろう。その環境では、拡散は二の次、三の次の課題となる。したがって、この評価表は普遍的な採点簿ではなく、自らの状況を診断するための思考のフレームワークとして活用されるべきなのである。

4. 俯瞰的視座:物理音響とデジタル時代の対話

吸音と拡散を巡る議論は、もはや物理的なパネルの配置だけに留まらない。現代のルームアコースティックは、強力なデジタル信号処理 (Digital Signal Processing, DSP) という第三のプレイヤーの登場によって、新たな局面を迎えている。

アルゴリズムの台頭

Dirac Live, Trinnov, Sonarworks SoundID ReferenceといったDSPルーム補正システムは、近年、驚異的な進化を遂げた。これらのシステムは、測定用マイクロフォンを用いてリスニングポイントにおける部屋の音響特性(インパルス応答)を精密に測定し、その問題点を補正するための逆フィルターをデジタル領域で生成する。その補正は、周波数特性の凹凸を平坦化するだけでなく、時間領域における位相の乱れにまで踏み込む 13。

特に、部屋の寸法によって決まる低周波の定在波(ルームモード)に対して、DSPは絶大な効果を発揮する。物理的な吸音材で同等の効果を得ようとすれば、非常に巨大で高価なベーストラップが必要となる領域を、DSPはスマートなアルゴリズムで、いとも容易く制御してしまうのだ。Dirac社が「Active Room Treatment」と名付けた最新技術は、複数のサブウーファーを協調動作させることで、低音の不要な響きを能動的に打ち消し、部屋の減衰時間を短縮することさえ目指している 23。

物理音響 vs. DSP:偽りの二項対立

このDSPの華々しい成果を前にして、「もはや物理的な音響処理は不要なのではないか」という声が上がるのは自然な流れかもしれない。しかし、それは物理とデジタルの関係性を誤解した、危険な結論と言わざるを得ない。物理音響処理とDSPは、対立する敵ではなく、それぞれが異なる問題領域を担当する、補完関係にあるパートナーなのである。

DSPには、その動作原理に根差した本質的な限界が存在する。

  1. 反射そのものは消せない: DSPは、測定マイクの位置における周波数特性や位相を補正することはできる。しかし、壁から遅れてやってくる強い一次反射音そのものを、物理的に消し去ることはできない。反射波は依然として存在し、耳に到達し、音像の定位や明瞭度を阻害する。この物理現象を根本的に解決できるのは、反射エネルギーを吸収する物理的な吸音パネルだけである。
  2. スイートスポットの制約: DSPによる補正は、原則として測定マイクを置いた一点、あるいはそのごく周辺の狭いエリア(スイートスポット)で最適化される。そのエリアを外れると、補正がかえって音質を悪化させることさえあり得る 13。対照的に、物理的な音響処理は部屋全体の音響特性そのものを改善するため、より広いエリアで恩恵が受けられる。
  3. 時間(RT60)の壁: DSPはインパルス応答の「形」を整えることはできるが、部屋全体が持つ固有の残響時間 (RT60)、特に中高音域の響きの長さを物理的に短縮することはできない。過度に響きが多い部屋でDSPに頼りすぎると、コンピューターが作り出した不自然な響きになりかねない。部屋の響きを自然にコントロールできるのは、やはり物理的な吸音材の役割なのである 12。

したがって、現代における最も洗練されたアプローチは、両者の長所を組み合わせたハイブリッド戦略に他ならない。まず、吸音材や拡散材といった物理的な処理によって、部屋の基本的な音響特性を整える。過剰な残響を抑え、有害な一次反射を除去し、拡散によって響きの質を高める。これは、絵を描く前に、上質なキャンバスを用意する作業に等しい。そして、その整えられたキャンバスの上で、DSPという名の極細の絵筆を用いて、物理処理だけでは対応が難しい頑固な低域のモードを精密に補正し、最終的な仕上げを行う。この共生関係こそが、現代のルームアコースティックが到達した一つの理想形なのである。

5. 結論:汝の部屋に、汝の音を

吸音と拡散の頂上対決を巡る我々の旅は、勝者を一人に定めることなく、その終着点を迎えようとしている。なぜなら、両者は競い合う敵ではなく、理想の音響空間という一つの目標に向かって、異なる側面からアプローチする、分かちがたい協力者だからである。真の問題は「どちらか」を選ぶことではなく、「どのように、そして、いかなる比率で」両者を組み合わせるかにある。

推奨されるシナリオ

最終的な結論として、個々の状況に応じた最適解への指針を以下に示したい。

吸音を優先すべきシナリオ:

  • 小部屋、プロジェクトスタジオ: 部屋の容積が小さいほど、低周波の定在波は深刻な問題となる。また、ミキシングなどの分析的な作業では、部屋の響きを排した正確なモニタリング環境が必須である。このような場合、コーナーのベーストラップを始めとする吸音処理が、何よりも優先されるべきである 17。
  • 残響過多の部屋 (High RT60): フローリング、大きな窓、コンクリート打ちっ放しの壁など、反射性の高い内装を持つ部屋では、まず全体の残響エネルギーを吸音によって低減させなければ、明瞭な音は得られない 22。カーテンやラグの設置も、手軽で有効な第一歩となる 24。
  • 予算が限られている場合: 効果的な吸音パネル、特にグラスウールを用いたものは、比較的安価にDIYで製作することが可能である 18。根本的な問題を解決するという点で、限られた予算で最も高い効果が期待できるのは吸音処理であろう。

拡散を優先すべきシナリオ:

  • 音響特性が比較的良好な部屋: すでにある程度、残響がコントロールされている部屋において、さらなる音質の向上を目指す場合、拡散は素晴らしい効果を発揮する。リスニングポジション後方や側壁に拡散体を設置することで、部屋の「生命感」を殺すことなく、音場に広がりと奥行きを与えることができる 4。
  • 音楽鑑賞専用のリスニングルーム: 分析的な聴取よりも、音楽への没入感を最優先するリスナーにとって、豊かで均一な拡散音場を創り出すことは至上の目標となる。特にアコースティックな音楽ジャンルでは、その真価が最大限に発揮されるだろう 5。

ハイブリッドアプローチの必然性 (現代の標準):

現代のシリアスなオーディオファイルにとって、最も推奨されるべきは、吸音、拡散、そしてDSPを組み合わせたハイブリッドアプローチである。理想的な構成の一例は、以下のようになるだろう。

  1. 低域吸音 (Bass Traps): 部屋の四隅に、可能な限り大きなベーストラップを設置し、音圧が最大になるコーナーで効率的にルームモードを減衰させる。
  2. 一次反射面の吸音 (First Reflection Absorption): スピーカーとリスニングポイント間の側壁、および天井の一次反射点に吸音パネルを配置し、直接音の明瞭度と音像定位の正確性を確保する。
  3. 後壁の拡散 (Rear Wall Diffusion): リスニングポジションの後方の壁に拡散体を設置し、背後からの強い反射を防ぎつつ、音場に広がりと奥行き感を与える。
  4. DSPによる最終補正 (Digital Correction): 物理的に整えられた部屋に対し、最後の仕上げとしてDSPを適用する。これにより、物理処理では追い込みきれなかった低域の凹凸を平滑化し、システム全体の周波数特性と時間応答を完璧に近づける。

最終所感

冒頭で提示した彫刻のメタファーに、今一度立ち返りたい。ルームアコースティックの最終目標は、無響室のような完全に「死んだ」空間や、計算式通りの完璧な拡散音場を創り出すことではない。それは、あくまで音楽そのものと、それを聴くリスナー自身に奉仕するための空間を「彫り出す」行為である。

物理法則という普遍的な理(ことわり)を理解し、吸音と拡散という二つの鑿を手に取り、自らの感性という名の導きに従って、部屋という名の原石と対峙する。その試行錯誤のプロセス全体が、オーディオという趣味の、そして芸術の深淵なる喜びを構成しているのではなかろうか。究極の「正しい音」とは、測定器のディスプレイ上ではなく、リスニングチェアに座るあなたの心の中にこそ、存在するのだから。


参考文献 / 参照リンク

引用文献

  1. 吸音と遮音||グラスウール断熱材・吸音材の旭ファイバーグラス, https://www.afgc.co.jp/knowledge/2017/04/04/8
  2. 吸音性 | マグ・イゾベール(株), https://www.isover.co.jp/product/glasswool/sound-absorption
  3. グラスウール吸音材 - 下関パッキング株式会社, https://www.shimopa.co.jp/product/noise/003.html
  4. 製品情報 | QRD | QRDについて - 株式会社太陽インターナショナル, https://www.taiyoinc.jp/products/qrd/about/
  5. Diffusor / ディフューザー, http://www.dynamicaudio.jp/audio/5555/4f/island_acce_qrd.html
  6. ルームチューニングの難しさたるや。。。。。 - Phil-M Community, https://philm-community.com/phile311031/user/diary/2023/03/06/15915/
  7. ぐらすうーるきゅうおんざい(グラスウール吸音材)とは?吸音ウールとグラスウールの違い, https://bo-onroom.com/glossary/differences-absorptive-soundproof-materials/
  8. グラスウールの吸音性能と断熱性能 - 会員の頁, https://www.onzai.or.jp/pdf/new/gijutsu201106_1.pdf
  9. オトノハ | 音響拡散体 - 日本環境アメニティ株式会社, https://www.nea-ltd.com/products/acoustics/otonoha/
  10. ルームチューニング徹底解明 - サーロジック, http://www.salogic.com/Basic-RoomTuning/Basic-RoomTuning.htm
  11. www.taiyoinc.jp, https://www.taiyoinc.jp/products/qrd/about/#:~:text=QRD%20%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A9%E4%BA%95%E3%81%AB,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  12. Design and implementation of a flexible and low-budget acoustic treatment for a reference listening room - ResearchGate, https://www.researchgate.net/publication/393498386_Design_and_implementation_of_a_flexible_and_low-budget_acoustic_treatment_for_a_reference_listening_room
  13. DIRAC AND ROOM TREATMENT | Audio Science Review (ASR) Forum, https://www.audiosciencereview.com/forum/index.php?threads/dirac-and-room-treatment.22091/
  14. GIK Acoustics Review (Easy Acoustic Treatment) - JOHN EYE PRODUCTIONS / BEACH HOUSE STUDIOS, https://www.thebeachhousestudios.com/gik-acoustics-review-easy-acoustic-treatment/
  15. Beach House Studios - GIK Acoustics Europe, https://gikacoustics.net/beach-house-studios/
  16. リスニングルーム訪問 京都M様 2022年7月 | 音工房Zのブログ, https://otokoubouz.info/room0007/
  17. Convention Paper - Suono e Vita, https://suonoevita.it/media/medialibrary/2020/05/2016_paper_AES_smallRooms.pdf
  18. シルク(正絹)を用いたルームチューニング DIY、効果のある布の面 - ACOUSTIC REVIVE, https://acousticrevive.jp/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=6026&forum=1
  19. お金かけずに手間かかて 素人防音・ルームチューニング奮戦記 - クチコミ掲示板, https://bbs.kakaku.com/bbs/-/SortID=14462533/
  20. 吸音パネルのインテリア実例 | RoomClip(ルームクリップ), https://roomclip.jp/tag/780420
  21. 吸音パネルとは?そのさまざまな効果と種類を紹介 - 岐阜プラスチック工業, https://teccell.co.jp/saint/column/soundproof-panel/
  22. 吸音パネル・吸音ボードとは|メカニズムとシチュエーション別の使用方法, https://www.acoustic-advance.co.jp/sound/sound_absorptive_panel.html
  23. is there any info when the dirac active room treatment come to other devices as Storm Audio exclusive ? | Audio Science Review (ASR) Forum, https://www.audiosciencereview.com/forum/index.php?threads/is-there-any-info-when-the-dirac-active-room-treatment-come-to-other-devices-as-storm-audio-exclusive.58901/
  24. 吸音材、”とりあえず”で貼っていませんか?効果的な設置場所と対策方法を徹底解説! - 防音専門ピアリビング, https://www.pialiving.com/blog/soundproofing-item/soundproofing-absorbing/soundproofing-effective-placement-guide